空想スゴロク

現在の状況は、まるで液状化した大地の上でスゴロクをしているかの如く

新元号は?

どうでもいい話だが、新年号の二文字はどうなるか? 僕が発案する有識者の立場だったなら「希」という文字を使いたい。この文字はいままだ使われていないし、Kで始まるのでMTSH表記でもKなので問題ない。もちろん、今の時代は若い人々から希望が失われているから、せめて年号だけでも希望が広く行き渡る、そのような意味の言葉を選んでほしい、と思うからだ。

とはいっても、僕は天皇制に反対の立場で、元号法にお納得しているとは言いがたい人間。だけど、他の人が使うのにまで積極的に反対する気持ちはないから。まあ、どうでもいいくらいの心情かな。ただ、どうせなら世の中に希望が持てるような言葉があふれた方がいいとの考えなので。

外国育ちのある日本人がが話していたことだが、市役所で書類の日付を西暦で書いたら「日本人なら年号で書いてください」と言われ、「年号はわからない」というと、その役人に「どうしようもないな」と吐き捨てるように言われ傷ついたという。

本当にそんな市役所職員がいたんのだろうか? と僕は訝しく思った。その話が作り話だといいたいのではない。しかしながら、記憶している限り、元号法元号の使用を強制する法律ではないはずだからだ。実際、役所に提出する書類にしても西暦で書いたこともある。僕の妻は外国人なので、彼女の生年月日は西暦で書いても年号で書いてもどちらでも受け付けてくれる。これは、一見当然のように思うかもしれないが、法律でどちらで表記してもよいとなっているから可能なのだ。

「公文書の年表記に関する規則』では「公文書の年の表記については、原則として元号を用いるものとする。ただし、西暦による表記を適当と認める場合は、西暦を併記するものとする。」とある。しかしこの規則は、公文書とは言えない市民が書く市役所への申請書類の年表記にまで及ぶものと考えることはできない。元号天皇制と深く関係しているため、これを強制することは、天皇制反対の人の憲法上の権利を侵害することになる。

最近では、政府自民党に反対する者は非国民だと騒ぐネトウヨの中に、天皇は平和を唱えているから左翼だ、と口にする連中までいるらしいということだ。何が何だかわからない時代に入ったようだ。

平成という年号を使うのも後5ヶ月と10日になった。

 

ロボットと話せますか?

キミはSiriを使っているか

StatCounterの統計によると、日本のスマートフォンでのiPhone使用率は2017年10月時点で67.1%。世界で見ると約20%、本国アメリカでも55%であることを考えると際だって高いことがわかる。筆者も日本でiPhoneが発売されてすぐに、携帯会社をソフトバンクに乗り換えて使っている。今使っているのはiPhone7で確か5台目だと思う。妻と中学生の息子は6Sで、小学生の娘は僕のおさがりのiPhone5CをSIMフリー(SIMなし)で使っている。妻はこの他インドやバングラデシュで購入した格安スマホを何台かもっているが、これを無視すれば我が家のiPhone占有率は100%となる。

因みに筆者は日本の多くのiPhoneユーザーと同じく決してアップル信者ではない。職場と自宅のPCはWindowsだ。他に家にはiPadがあるが、これは息子のもの。

しかし、スマートフォンタブレットがアップル製品なのには理由がある。簡単に言えばセキュリティ面でAndroidを信用していないからだし、それはアメリカの国策企業とも言えるGoogleをあまり信用していないという事情も含まれる。

一般的にiPhoneを使う理由にならないが、個人的には(今では誰も言わないけれど)初代iPhoneが実はソニーのアイデアのほぼ丸写しのようだったことが関係している。記憶の奥を探ると、白い紙にデザインされた未来の情報端末。どこかにSONYの文字が入っていたはずだ。その画像を見たとき、そのアイデアは日本のSF漫画の延長線上で示された未来に違いないと、僕は納得したものだった。

 

さて、iPhoneの機能そのものについて昔と今の違いを比較して一番の違いは何かと言えば僕はSiriだと思う。通信速度やカメラ、画面の高速化、高性能化は本質的な違いとは言えない。しかし、これまで指で行っていた操作が、音声でも行えるようになったということは決定的な違いと言える。

しかし、Siriに続いてOK google なんかも含めて音声アシスタンス機能は登場以来殆ど人気が無い。Siriなどを使っているか、との質問に対して2012年と2017年の回答でその差は殆ど無い。外出先で使っている、との回答はアメリカでも僅か2,3%に過ぎない。

こうした統計の中でiPheneとAndoroidで若干の差異が見られるが、おそらくGoogle検索での音声入力と対話型の音声アシスタンスを混同しているためだろうと思われる。検索ワードの音声入力と、人工知能を使って返事を返してくる音声アシスタンスでは雲泥の差がある。前者はたとえ人前でも案外恥ずかしくないが、Siriとの会話は人前では決してしたくない。殆どの人はそう思うはずだ。

ところが、ここに来て、様々なメーカーからAIスピーカーが発売されてきた。

 

技術者はなぜ対話型音声アシスタンスに未来を夢見るのか

今のところ、究極のAIスピーカーとも言える製品は、ソニーのコミュニケーションロボット「Xperia Hello!」だ。もちろん、単なるスピーカーではなく、少ししか動かないロボットだが、ちょっと驚く。

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ロボットがどんなに優れたコミュニケーション能力を備えているにせよ、このビデオのような使い方は想像できるだろうか? このロボットは目が光ったり、体の一部が動いたりと、親しみが持てるよう作られているが、ロボットと言うよりは音声コミュニケーションを主としたAIスピーカーだ。従って、家の中とは言え、家族がいる前で積極的に話しかけるというシーンは今のところ想像しづらい。先にほんの少し触れたが、機械との会話は日本人に限らず、欧米人を含めて「気恥ずかしい」と感じる人が多数だ。

 

このような状況の中でソニーはじめ家電メーカーやアップルやGoogleのような企業がAIスピーカーに力を入れているのには必ず理由がある。
例えば、外出先であろうが家の中であろうが、家族の前で機械に向かって単なる命令以上のコミュニケーションは苦手にしても、暮らしの家の中で機械に向かって話しかけることはそれほど苦痛ではない。何かを調べるならば、いちいちスマホの画面に指を立てて打ち込むよりは、マイクボタンをタップして口でキーワードを打ち込んだ方が楽だ。従って、このソニーのビデオの本当のターゲットは家族ではなくて、少し経済的に余裕のある単身者に違いないはずだ。
例えばあなたが現在60才以上であれば、犬や猫や鳥などペットを飼うことをためらうはずだ。今では犬も猫も屋内飼育であれば20年近く生きるし、オウムだってそうだ。自分は80才まで健康に生きられる、と仮に信じていたとしても、高齢になってのペットの介護はきつい。そうした人向けに優れたコミュニケーション能力と学習能力があり、かつ愛らしい小型のロボットは売れるはずだ、と考えて不思議はないだろう。また、特に子供の学習向けのツールとしても単なるモニターよりは、音声と映像で勉強相手になってくれるロボットのほうが望ましい。
しかし、そのためには様々なデータを収集する必要がある。サンプルは多ければ多いほどいい。
 
こうした製品の開発者に限らず、多くの人々はSiriをあまり使わないのとは裏腹に、まるでアニメのアトムと話すように、自分の意思をロボットに言葉で伝えたり、発した言葉を文章化してくれるロボットがあればいいと夢想していなかっただろうか?
従ってまだ満足できないにせよ、その夢の実現の一歩手前まで今人類は来ているのだ。 

 

ネット通販での買い物

一昨日、アスクルから職場に届いたキッチンプランターを持って帰り、その小さなプランターに土を入れ、タップと水を加えてからレタスの種を植えた。

説明書によれば、二人が帰ってくる頃には収穫できるらしい。ところが翌朝、僕が暮らす東京の多摩地域も急に冷え込み、ちゃんと芽が出るかどうか心配になった。

プランターは買ったのではなく、ポイントとの交換。「キッチン栽培セット ガーデンレタスミックス」という代物で、1300ポイントでの交換。僕の職場ではもう8年以上もアスクルを使っているが、貯まったポイントを使うのはこれで2回目だ。説明では原則100円に1ポイントで、貯まったポイントはスイーツなどと交換できる、とある。だが、なぜか思ったほど溜まらない。前回も同じようなポイント数だったと思うが、もう2、3年前のこと。

職場では主としてアマゾンを利用している。購買担当の自分としては、価格もさることながら、インターフェースが楽天などのように ゴジャゴジャしていないことや、商品の比較、価格の比較が簡単に出来ることなどが重要。そして何より肝心なのがそのサイト自体が責任を持って直接販売していること。アスクルがまさにそうだが、アマゾンもその点では心配なく利用できる。もちろん、アマゾンではショップの直接販売もあるから、アマゾンが直接販売していない商品は出展者から直接買うことになる。

アマゾンへの不満は、よくは分からないが「ちゃんと税金払えよ」というのと、プライムに入っていると通常配送ではなくてお急ぎ便がデフォルトになっていることだ。急いで配達してもらいたいことはごく希だ。ドライバーのことを考えればお急ぎ便に関してはプライム会員に対しても有料にすべきだと思う。過剰サービスは消費者、利用者にとっても迷惑である。

アマゾンなどのネット通販が出てきてから買い物は随分変わった。個人的にはなかなか入手困難なものが簡単に手に入るようになったこと。例えばクラシックギターの楽譜。昔はちょっとした楽器店でも扱っていたが、今は殆ど置いていない。

最近買った楽譜で、おすすめはこれ。ご存じ、バッハのリュート組曲全集。(クリックするとアマゾンのページに飛びます)。

Bach Lute Suites for Guitar: The Complete Works for Lute Solo by Johann Sebastian Bach. Newly Transcribed and Annotated, Including Historical and Performance Notes (Classical Guitar Series)

クラシックギターをやっている人ならバッハのリュート組曲の何曲かは弾いたことがあるだろう。僕は特に第4番がお気に入りで高校生の頃から弾いているが、残念ながらプレリュードは未だに人前で弾けるレベルに達していない。バッハの難しさの大部分は恐らく暗譜の難しさにあるのではないかと思うが、こと第4番に関して言えば(聞き慣れているせいか)暗譜はさほど難しくはなく、運指の良し悪しに大きく左右されると思う。その点、非常に丁寧に運指が記されており初見でもあまり迷うことなく演奏することが出来る。

加えてそのボリュームも加味して言えば、輸入楽譜はとしては格安だ。

もう一冊、先月買った楽譜を紹介しよう。今年になって現在ギター社から再版された山下和仁編曲のうちの一冊である。

 

GG601 ドヴォルザーク:ラルゴ~「新世界より」、ヒメネス:アロンソの結婚/山下和仁・編 (YAMASHITA EDITION)

山下の「新世界より」の楽譜自体は初版で購入し、実家に眠ったままだ。もちろん、所々試しに弾いたくらいで全曲を弾きこなすだけのテクニックはない。先月この楽譜を購入した理由は「新世界より」を弾きたいからではなくて、「ヒメネス:アロンソの結婚」をたまらなく弾きたくなったからだ。この曲を弾くのは中学生の時以来だ。 

中学生だった僕は、小原安正がやっていた通信教育でギターを学んだ。送られてきた教材には、ぺらぺらの薄いレコード盤(ソノシートと言ったかどうか確信はないが)の中に小原安正の娘さん(小原聖子?)が演奏する「アロンソの結婚」も入っていたと思う。もちろん、楽譜が載っていたので挑戦。だが、爪も伸ばしていない指では、はじめの数楽章で弾くのは無理だと諦めた。

今はもうないが、中学にはギター部があって僕は部長をしていた。「アルハンブラの思い出」とか、アルベニスの曲とか、そんな難しい曲を通信で覚えてはへたくそながらもみんなの前で弾いて得意になっていた。そして、いつかプロのギタリストになることを夢見ていたのである。

で、約半世紀ぶりに(ちょっと大げさか)に弾いてみての感想は、やっぱり難しい、ということ。弦を弾く指ににそれなりの力強さがなければ、この曲の華々しさは表現できない。体力のいる楽曲だ。

逆に言えば、体力のある若い人には是非挑戦していただきたい曲である。

 

 

ああ浅ましい

牛丼屋で

かつて独身の頃は街を歩いていて小腹が空いて、ポケットに小銭があれば何のためらいもなく牛丼屋に入ったものだった。

今でも憶えているが、生まれて初めて入った牛丼屋は銀座の吉野家だった。僕は銀座で新規開店する喫茶店のウェイターとして雇われ、開店前日にオーナーがスタッフ全員を連れて行った先が吉野家だったのだ。吉野家に行く前に恐らくどこかの高級店で軽く祝杯をあげたと思うのだが、その記憶はすっぽりと抜けている。

喫茶店のオーナーは有名な映画俳優や作家などと交流があり、年に何回かテレビに出ることもある高級クラブの経営者兼ママで、その右腕の社長か何かをやっていた人はもともとは医師免許を持ち製薬会社で研究員をしていた人だった。そして、吉野家に行ったスタッフはママの親戚と僕を除けば全員がママが経営していたクラブのホステスだった。

初めて食べた牛丼の味は覚えていないが、とても満足したことだけは何となく憶えている。

さて、それ以来、不思議に思うことがある。なぜ人は牛丼屋、とくに吉野家に行くと牛丼に大量の紅ショウガをのせ、そして牛丼と味噌汁に唐辛子をかけるのだろうか。

その人たちは自宅でも味噌汁に唐辛子をかけるのか? 僕は一度もそんなことをした覚えがない。たしかに、豚汁ならばかけたことがあるかも知れないが。

最近、僕は吉野家に入っていないのでよく分からないが、気のせいか松屋では紅ショウガを大量に食べる人は少ないように思える。

牛丼に大量の紅ショウガを乗せる人を見ると、とても悲しい気持ちになる。その浅ましさが哀れなのだ。

今は滅多に牛丼屋に入らなくなった。貧乏ということもあって外食自体、月に1,2回である。昼も持参した弁当を食べている。僕には妻と子がいるが、家でのみんなの夕食と弁当は僕が作っている。運動会の弁当もそうだ。

だが、牛丼屋さえ入らないのは、恐らく人の浅ましさを目にしたくないからだろう。

 

駅の立ち食いそば屋で

紅ショウガではないが、一度駅の立ち食いそば屋で驚くべき光景を目にしたことがある。隣にたってラーメンを注文した客が驚くべき事にラーメンに山のように胡椒を振りかけ、GABANの大缶が空になると店員にもう一缶よこすように言ったのだ。すると店員のおばさんはあきれて、「お客さん、これいくらすると思っているの、大概にしてくださいよ」と当然のように応えた。胡椒は一缶千円以上はするはずだから、店員さんが注意するのは当然である。すると、そのオヤジは「ケチだなぁ」と言って胡椒で真っ黒になったラーメンをさっと平らげて立ち食いそば屋を出て行ったのである。

家でそんなに胡椒を食べていたらたちまち破産だろうと思われる風体の、さえないオヤジであった。

 

ああ、浅ましい。

 

 

 

雑感2 

ジョーン・バエズの「記憶」

ロヒンギャ難民とバングラデシュのことについて調べようと思いPCに向かってググっていた時、急に思い立ってYoutubeの検索窓に「ジョーン・バエズ バングラデシュ」と打ち込んでみた。すると、あっさりと「バングラデシュの歌」が出てきた。

この歌を聴くのは何十年かぶりだ。この歌は1971年、300万人が殺害されたと言われるバングラデシュ独立戦争の1,2年後にバングラデシュ救援のために作られた歌だ。

僕は長い間バングラデシュに関わってきたので時折この歌の存在を思い出すことがあったが、それ以上のことは何も考えてこなかった。

しかし、どう頭の中を探っても、この歌にまつわる個人的な体験、あるいは聞いたときのシーンを思い出すことが出来ない。

はっきりしているのは、この歌を聴いたのは北海道にいることだったと言うこと、そして僕はまだ中学生か高校生だったということぐらいだ。

知らない歌手の歌なら思い出すこともないだろう。しかし、僕の家には彼女のアルバムがあって、小学生のころから聞いていたのだ。それから、「ウッドストック」に出ていた彼女をロードショウで観ていて、ビラ=ロボスの「ブラジル風のバッハよりアリア」を歌ったと記憶している。

 

 

www.youtube.com

(通常の演奏の構成はオーケストラと一人のソプラノだが、上のリンクは恐らく小さなサロンで一本のギターをバックにした歌唱。このバージョンも(確か)ビラ=ロボス自身の手によるものだ。作品数こそ少ないもののギターにとっては最も重要な作曲家の一人だ。)

 

僕自身の貧しい記憶について

しかし、正直に言って、僕は昔のことを殆ど憶えていない。記憶力に自信はないとはいえ、そういう問題ではない。信じがたいかも知れないが、まるで人生の大半が存在しなかったかのように、子供の頃ことも大人になってからのことも殆ど憶えていないのだ。もちろん、記憶喪失者ではないのだから日常生活に支障が出るほどの喪失ではなく、あえて言えば準記憶喪失とでも言うしかない。

そんな自分でも高校2年生の頃、初めて付き合った彼女の名前は忘れていないし、彼女が小学生の頃、営林所に勤めていた彼女の父親が死んだ話も、断片的であるが思い出すことが出来る。早苗という名の1歳年下の彼女はその頃の話を驚くほど事細かに憶えていてよく語ったものだった。

けれども僕は自分の父親について恐らく何も語らなかったと思う。父は僕が小学5年か6年の頃にどこかに消えてしまっていたのだ。

父の失踪は端から見ればよくある話に過ぎないかも知れないが、僕にとっては決して他人に語れない秘密だった。父がいなくなって家には借金だけが残り、その結果、家も土地も失って僕の一家は追い出されるように村を出たのだった。思えば父は見栄っ張りで、家族に対して格好を付けたかったのかも知れない。そのため借金したり詐欺まがいのことをしたりして二進も三進も行かなくなって逃げ出す羽目になったのだろう。

僕自身はと言えば、見栄とは無縁で、青年期に長く鬱病を患ったこともあって父のことはもとより、自分自身のことも(匿名ならばともかく)誰にも語らない人間となった。自分の過去のことを忘却してしまうことで、相手に対して正直でないこと、心を開いていないこと、秘密を持っていることなどの罪悪感から逃れてきたのだ。過去を思い出せず、何も語らなければ嘘をつく必要もない、という訳だ。

こうした心理的な抑圧が、僕の準記憶喪失とも呼べる症状の原因かも知れない。あるいは、若い頃の鬱病もしくは治療のための向精神薬による副作用の可能性、つまり薬によって記憶野が冒された、というような可能性も否定できない。

ちなみに、その後父は再び家族に連絡してきて3年ほど一緒に暮らした後また失踪した。そして、母が亡くなった半年後に自殺体で発見されたのだった。

 

さて、ジョーン・バエズの話に戻そう。数年前のことだが、家族でバングラデシュダッカの友人宅に泊まったときの事だ。何かの折に見せられた写真の中にその友だちと写っているジョーン・バエズの姿があった。聞けば驚くべき事に、友人だという。子供頃から知っているフォークソング界のスターと自分の知り合いが友人だということを知り、何と世界は狭いのか、と不思議な気持ちになったのを憶えている。

僕は生涯、反戦平和の側にたって生きてきた。思えば、ジョーン・バエズの歌との出会っていたことが自然とそうさせたのかも知れない。中学2年になると岡林信康などの日本のフォークを聞くようになり、高校生の頃には大人に混じってデモに参加するようになっていた。

僕はこれまで記憶に蓋をして生きてきた。昔のことを思い出すこと、それが当面の課題で、そのためにもこのブログは匿名のままで、僕自身の体験にまつわることを綴っていこうと思う。

 

 

 

雑感1

今日からブログというものを始める。はじめに今そこにある危機を話題にしたい。

 

日本は破滅に向かってひた走っているのだろうか。僕にはそう思えてならない。

トランプと金正恩との子供じみた罵り合いに乗じて、地理的・歴史的に北朝鮮の攻撃対象となる可能性がもっとも高いこの国の首相は「対話と圧力」というポリシーから、圧力一辺倒へ転向することを国会にも国民にも相談しなかったことはもとより、閣議決定すら経ずに国連総会において宣言した。これにより、仮に北朝鮮がアメリカに対して武力攻撃するとしたら、それはグアムの米軍基地ではなく、日本にある米軍基地に対するものとなる可能性が格段に高まったと言わねばならない。

近年対話らしい対話に向けた努力をなんら行って来なかったにも関わらず対話を無意味だとして投げ出した安倍政権。かたや韓国は圧力強化の一方で、昨日、北朝鮮に対する人道支援を発表した。ピョンチャン冬季オリンピックへの北朝鮮の参加の呼びかけはそれ以前から行っており、防御を固める一方で緊張緩和と平和の実現に向けた外交努力を重ねている。

言うまでも無いことだがトランプの馬鹿げた一連の発言は、東アジアでの緊張を高めて日韓に武器を買わせる商売面と、低支持率で難しい政権運営を安定させるための政治的な思惑から出たものと言われている。もちろん、そうかといって金正恩斬首作戦を実行に移す危険性がないとは言えない。安倍政権のアメリカ追随の強硬姿勢の狙いは、もちろん森友・加計学園問題その他から国民の目を逸らす目的があるだろうが、一方で危機を煽ることで憲法改悪の地ならしが狙いだろう。明日開かれる臨時国会の冒頭で衆議院解散を強行する構えだ。これに対して、当面はアメリカと北朝鮮との間で武力衝突は起きないから今のうちに選挙をやろうとしているのでは、との説があるが、僕としては安倍はこの間に武力衝突が起ることを望み、そして自衛隊を防衛出動させたいと強く願っているのではないか、と思う。

では、どうすべきか。

現在の危機を回避するためには対話する以外にあり得ない。

1.トランプ、安倍は一緒でも別々でも金正恩と北京でもモスクワあるいはウラジオストックでもいいから直接会って話をすべきだ。そして、その対話を推進し、対談によって得られた成果は国連によって担保されるようにするため、国連は特別担当者を任命すべきである。

2.中国、ロシアは北朝鮮の核放棄または開発凍結のために、北朝鮮が最も懸念しているアメリカによる破壊活動への危惧を払拭するための効果的な方法として、両国は中心となって北朝鮮の安全を保障するために機構を作るべきだ。これには軍事的な支援、つまり北朝鮮への軍事的な攻撃に対する防衛活動を含む。

3.核廃絶あるいは凍結への具体的なスケジュールが合意された時点で、経済封鎖を解除する。かつて6カ国協議で北朝鮮が核開発計画を停止したにも関わらず、アメリカは原発を供与せず約束を破り今日の事態をもたらした。原発輸出は噴飯物であるが、代わって風力発電など新エネルギーを供与することでこれに代える。

4.上記の一連の流れに沿って、朝鮮戦争終結のための平和条約締結へのプロセスを開始する。また、日本は同時に北朝鮮朝鮮人民民主主義共和国を正式な国家として認めると共に、戦後賠償を開始すること。これなくして、日本と北朝鮮との和解は望めない。

 

危機は防衛や政治面だけではない。経済・産業面も極めて危うい。また、マスコミの退廃も著しく、政権監視などの機能を果たしていない。こうした上の世界(つまり、市井の人間には関われない世界)の事ばかりではなく、例えばインターネットの普及によってもたらされたと言われる排外主義など様々な負の事象が世の中のほころびから漏れ出てきており、これも深刻な危機だ。

 

このブログは日記の代わりに書いていくつもりだ。