空想スゴロク

現在の状況は、まるで液状化した大地の上でスゴロクをしているかの如く

ああ浅ましい

牛丼屋で

かつて独身の頃は街を歩いていて小腹が空いて、ポケットに小銭があれば何のためらいもなく牛丼屋に入ったものだった。

今でも憶えているが、生まれて初めて入った牛丼屋は銀座の吉野家だった。僕は銀座で新規開店する喫茶店のウェイターとして雇われ、開店前日にオーナーがスタッフ全員を連れて行った先が吉野家だったのだ。吉野家に行く前に恐らくどこかの高級店で軽く祝杯をあげたと思うのだが、その記憶はすっぽりと抜けている。

喫茶店のオーナーは有名な映画俳優や作家などと交流があり、年に何回かテレビに出ることもある高級クラブの経営者兼ママで、その右腕の社長か何かをやっていた人はもともとは医師免許を持ち製薬会社で研究員をしていた人だった。そして、吉野家に行ったスタッフはママの親戚と僕を除けば全員がママが経営していたクラブのホステスだった。

初めて食べた牛丼の味は覚えていないが、とても満足したことだけは何となく憶えている。

さて、それ以来、不思議に思うことがある。なぜ人は牛丼屋、とくに吉野家に行くと牛丼に大量の紅ショウガをのせ、そして牛丼と味噌汁に唐辛子をかけるのだろうか。

その人たちは自宅でも味噌汁に唐辛子をかけるのか? 僕は一度もそんなことをした覚えがない。たしかに、豚汁ならばかけたことがあるかも知れないが。

最近、僕は吉野家に入っていないのでよく分からないが、気のせいか松屋では紅ショウガを大量に食べる人は少ないように思える。

牛丼に大量の紅ショウガを乗せる人を見ると、とても悲しい気持ちになる。その浅ましさが哀れなのだ。

今は滅多に牛丼屋に入らなくなった。貧乏ということもあって外食自体、月に1,2回である。昼も持参した弁当を食べている。僕には妻と子がいるが、家でのみんなの夕食と弁当は僕が作っている。運動会の弁当もそうだ。

だが、牛丼屋さえ入らないのは、恐らく人の浅ましさを目にしたくないからだろう。

 

駅の立ち食いそば屋で

紅ショウガではないが、一度駅の立ち食いそば屋で驚くべき光景を目にしたことがある。隣にたってラーメンを注文した客が驚くべき事にラーメンに山のように胡椒を振りかけ、GABANの大缶が空になると店員にもう一缶よこすように言ったのだ。すると店員のおばさんはあきれて、「お客さん、これいくらすると思っているの、大概にしてくださいよ」と当然のように応えた。胡椒は一缶千円以上はするはずだから、店員さんが注意するのは当然である。すると、そのオヤジは「ケチだなぁ」と言って胡椒で真っ黒になったラーメンをさっと平らげて立ち食いそば屋を出て行ったのである。

家でそんなに胡椒を食べていたらたちまち破産だろうと思われる風体の、さえないオヤジであった。

 

ああ、浅ましい。